夢流し

辺りはあまりに静かでも、頭の中はどんちゃん騒ぎ。京都の地に独り暮らし、苦節の学部生生活を送る京都大学生のブログ。文化、言語、娯楽、心理、生活等に関して、大学における教養科目の講義で得た知識を再解釈および適用し、その知を広く社会に還元することを目指す。

伝統的体罰と儀礼としての部活動

大阪市立桜宮高校体育科での体罰事件を端緒とする最近の体罰問題に関して、大学の教養科目で学んだ事柄、特に人類学の視点からいろいろ思うところがあるので書きました。なお私は幸運にも、学校教育において体罰を受けたことはありませんでした。

教育課程における体育科設置の本来の意義

高校生の時分、現代文のワーク教材だか模試だかで、次のようなことが書いてあるのを読んだ。明治の開国以後、急速に近代化を目指す日本政府は、自身が富国強兵を目指す大日本帝国の主権ある国民の一人であるという自覚を、国民に知らしめる必要があった。こういったことは口で説いて分かるものではない。彼らに国民としての意識を根付かせるためには、文字通り体に教え込むのが最善である。こうして教育課程に体育科が組み込まれたのだ…。
二次的な文献である上に記憶も正確ではないので、原典を参照することもできないのですが、我々の受けてきた体育科の過程も、思い返してみればそうした色合いの強いものでした。行進や「回れ右」といった集団行動、応援合戦に組体操…。運動会、あるいは体育会は、元々このような教育、というより教化の成果を披露する場であったのかもしれません。これを現在も行っているのが北朝鮮です。その点、我々がテレビを通して異様なものと映るマスゲームも大差ありません。

体育科の教育目的の喪失

しかしながら、太平洋戦争に日本は敗北し、日本は富国強兵の政策を廃されます。体育科教育においては、どういうわけか上に挙げたような教育内容は変わりませんでした。しかしその教育の意義、すなわち近代国家の一国民としてのモデルを体に教え込むという目的が失われてしまったのです。困ったのは体育科の教諭で、ここで彼らは体育科の教育に何らかの意味合いを求めようとしました。その代表格が「心身を鍛える」というものです。基礎的な体力をつけるだけではなく、精神までも鍛えるものだという考え方が、少なくとも教育課程からは影をひそめたとしても、中学・高校での体育系部活動において引き継がれました。学校によっては、部活動への所属が必須になっているところもあるようです。私の中学や高校ではそのようなことはありませんでしたが、中学では新入生の部活動への入部はほぼ義務となっており、私もやむなく入部しましたが、辞めるに辞められず大変苦々しい思いをしました。貴重な中学生時代を無駄にした要素の一つです。

「体に教え込む」ということ

先に、政治的イデオロギーを国民に植え付けるのに、体を動かすのが最善であると書きましたが、そのことについてより詳しく書きます。ある程度教育を受けた学生ならまだしも、初等教育程度の児童にものごとを教え込むのは難しい事です。口で説明しようにも、その言葉自体覚えてまだ短い。では言葉を理解しない乳幼児がどのようにして物事を、ひいては言葉を覚えたのかというと、それは真似をすることによるものです。指を差した方向に目を向けるといった行動は、人間にしか見られないものですが、ある程度の先天的な志向性はあるにせよ、親や周囲の人々の行動を観察し、それを真似することによって習得されますし、言葉も口の動きや発声をまねることで覚えられます。これらのものまねはつまるところ身体運動です。体を使うことによって、それが体で感じられ、体で覚える。こうした身体的な学習を教育する究極的な方法が体罰です。ここでは広い意味で、例えば乳児が食べられないものを口に入れようとしたときに親がその手を打つ、といったものも含みます。この体罰は子供が言語を習得した後も、「言っても聞かない」場合に最終手段として講じられることがあります。

伝統的体罰と近代的教育論

しかしこうした伝統的、古典的な教育法に待ったをかけたのが、同時に近代的な教育法でもあったわけです。欧米列強は植民地政策の中で、その土地の悪習陋習、例えば女子割礼とか麻薬性植物を喫するといった行為を廃止しました。日本での留学中に近代思想に触れ、後に中華民国の臨時大総統となった孫文も、女性の脚を変形・固定させる纏足を禁止する令を発しています。
教育現場における体罰への批判も、同じ文脈によるものです。感情に任せて子供に理不尽な暴力を振るうなどあってはならない、近代市民ならば弁論をもって理性的に教化すべきだ―。このような考えの根強い欧米では、アジアやアフリカからの移民が子供に体罰を振るっている場面が通報され、親が刑務所に入れられる、ということさえ起こるわけです。
しかし日本は違いました。教育現場において生徒に体罰を執行する教師を、しばしば腕を振るってまで生徒の事を考えてくれる「熱血教師」と見なす土壌が、既に固まっていたのです。このような熱血教師に対する期待感というのは今なお根強く、ひょっとするとそのような教育のおかげで経済成長を達成することができた「古き良き日本」への懐古の思いがあるのかもしれません。
そうでなくても、日本は欧米の近代的思想を取り入れる一方で、古くからの伝統的なものごとの考え方を保持してきました。男女平等が喧伝される一方で、日本の文化を象徴するアニメ『サザエさん』の家族構成は、磯野波平を大黒柱とする家父長制大家族であるのです。核家族が増える現代においても、磯野家の伝統的な亭主関白は相変わらず日本の家族の理想像であり続けています。そういうわけで、伝統的な文化や風習が、必ずしも悪いものというわけでもないのです。
ところで、日本はよく「伝統的に男女平等」と言われますけども、それはむしろ西洋の文明思想を輸入した明治以降のことで、それほど長い伝統ではありません。平安時代から政治は男性が握る一方で財布は女性が握っていたと言われますが、日本は古来男女平等でもなければ、どちらが優位ということもありません。それぞれの性の役割がうまく分担されていたのです。

通過儀礼としての部活動

もう一つ、体罰が廃されない要因があります。それは体罰を含む体育系部活動の過程が、一つの通過儀礼となっているからです。第二次性徴の前後における成人儀礼は広く世界の文明に見られますが、近代における教育制度の導入はこれを一旦なくしてしまった。その代わりとして立ち現われたのが、儀式として設置されたものとしては卒業式や入学式であったり、思わずも実際そのように機能しているものとしては、学校に入学するまでの受験戦争であったり、あるいは入学してから所属することになる部活動であるわけです。
先に私は中学校では嫌々ながらも部活動に属していたと書きましたが、高校ではもうこんな事には飽き飽きだと思って無所属を貫きました。しかしこの高校ですら、自由な学風を謳っている一方で、「生徒の九割が部活動に所属!文武両道を達成!」と、活発な部活動をアピールしていました。中学や高校で部活動を経験することが、人間的成長に繋がると考える向きが、なお根強くあるようです。スポーツ活動を教育の中心に据える学校では、なおさらのことでしょう。しかし実際としては、部活動での関係は後輩―先輩―顧問/監督/コーチという封建的関係が規範とされていますし(これについては一概に悪いとは思いませんが)、部活動内でのいじめ問題や、今紙面を騒がせている顧問教師による体罰問題など、こうした部活動が必ずしも人間的成長に与するかというと、はなはだ疑問です。実際、私が中学での部活動の経験から得られたのは、目上の者へのおもねり方、理不尽な追及への妥協、卑屈さなど、確かに現代社会を生きる上で役には立ちそうなのですが、それが正の方向性のある成長かというと、それはちょっと違う気がします。むしろああなってはいけないという大人の悪い見本ですね。その一方で、高校で部活動を経験しなかった私の精神性は、ソトでは孤高にしてウチには依存する、社会に反発的でなおかつ打たれ弱い根性という、やはり社会的には求められないようなものになってしまいました。そこはむしろ愛嬌のうちだと、自分としては思っているのですが…^^;

自律的な活動としての部活動のあり方

今思えば、中学生の部活動で、体育館の裏でいかにして時間を空費するかを考えるよりも、自分の将来について考えていればどんなに良かったかと思います。あの時、部活動を変えることは考えても、部活動をやめるという発想はなかったのです。体育科の生徒であれば、なおさらその選択肢は無いに等しいでしょう。それでも自殺に追い詰められた生徒は、部活や学校をやめたいと家庭では漏らしていたということです。やめたいのにやらなければならない、その葛藤か彼らをますます苦しめたに違いありません。
体罰を行った教師を処分するのも結構ですが、学校は生徒が部活動をやらない、あるいはやめる自由を全面的に認める雰囲気を醸成すべきです。生徒が自分の意思に従ってそのような部活動を脱することができれば、このような不適切な教師が顧問を務める部活動も自ずと潰れます。そしてこの意思を尊重すべきなのは保護者も同じです。そのことこそ真に子供の将来を考えることであると思います。生徒としても、やがて一人前の大人になるのだから、それに満足する自主性や自律性を身に着けておくべきなのです。
最後に、私が中学生の時に目にした、ある指導の光景を書き残しておきたいと思います。一組の担任ながら、強面で生徒指導の面では学年で最も力のある先生が、他に誰もいない廊下である生徒を叱っていました。その先生については、問題のある生徒を強く引っ張るといった行動は目にしたことがありますが、生徒に暴力を振るっていたところを私は見ていません(顧問をしていた野球部では恐らくあったと思います)。しかしその叱り方が異様だったのです。記憶が曖昧ですが、次のようなことを言っていたように覚えています。
「そんな事言われたら俺泣いてまうわ!かあちゃ〜んかあちゃ〜ん」
文字にしてしまうとなんとも滑稽ですが、これが鬼気迫る演技で生徒を圧倒していたのです。たまたま見かけた私でさえ震え上がったのですから、叱られていた生徒が思わず涙ぐんだのも無理はありません。
恐らくその生徒は他の生徒に不用意な発言をしたことで先生に指導されていたのだと推し量られるのですが、実際に身体的暴力が行使されなくても、言葉に先生自身の身体性が強く感じられるだけに、聞くものの心に迫ってくるようです。この時指導しているのは、先人としての経験から生徒を指導する先生であると同時に、生徒と同じ生を生きる人間です。教える者が教わることの方がかえって多い、という言葉もあります。生徒と本当の意味で同じ立場に立って問題に対処する、それこそ一方的な体罰どころかお互い殴り合うくらいの先生こそ、真の意味での「熱血教師」と呼べるのではないかと思います。ただこういう点においては、教師より友人の果たす役割の方が大きそうです。かりに理不尽な教師があったとしても、徒党を組んでそれに抗うことができるような友人があってほしいものです。