夢流し

辺りはあまりに静かでも、頭の中はどんちゃん騒ぎ。京都の地に独り暮らし、苦節の学部生生活を送る京都大学生のブログ。文化、言語、娯楽、心理、生活等に関して、大学における教養科目の講義で得た知識を再解釈および適用し、その知を広く社会に還元することを目指す。

野々村兵庫県議の会見についての精神分析学的考察

野々村兵庫県議の号泣記者会見が話題になっている。私は昨日は日中手が空いておらず、夜帰ってきてTwitterのタイムラインでこのことを知った。動画を見てみて思わず笑ってしまったのだが、私は彼の取り乱し泣き喚く言動が面白おかしいと揶揄しようとか、あるいは議員失格であると非難したりとか、そういうつもりはあんまりない。私が興味を持ったのは、その様態よりはむしろ発言の内容である。

兵庫県議の号泣会見に「多くの批判」 議会が対応協議へ:朝日新聞デジタル

彼は自身の政務活動費について弁明し、指摘を真摯に受け止め、議員としてそれへの折り合いをつけるのでなければ大人の社会人ではないと述べる。活動費の使途については、調査活動費として正当なものだと信じているようにである。しかし「小さなものが大好きで、ほんとに子供が大好きなんで」と、こうして非難されている大人の自分が子供に対してどうかということに話が及ぶと、言動がやや不安定になってくる。自身が議員になるまでの経緯を述べ、議員として辛くて申し訳ないと震え声で恥じ入った後、高齢者問題の話に至ってその情動は極大となる。私は彼の政治的信条についてよく知らないが、少子高齢化問題についてただならぬ思いを抱いていることが映像からはよくわかる。この言動が演技であるとの指摘がいくつか見られたが、私にはそのようには思われなかった。防衛機制の自然な発露ではなかろうか。

耐え難い状況で泣き喚くといった行為は、防衛機制でいうところの幼児退行に相当する。それでは彼はいったい何を防衛しようとしたのだろうか。議員として、大人の社会人として折り合いをつけねばならないことを彼はしきりに強調した。彼が守ろうとしたのは議員としての大人の像である、しかしてそれは万能な行為主体としての像である。

彼は自身の大人としての像を、議員という役職に同一化している。ところが彼の政治的主張の場面からは、本来的に子供に属するナルシシスティックな一面を汲み取ることができる。彼が惜しみもなく政務活動費を自身の調査費に当てることができたのも、幼児期に端を発する万能感からであろう。彼が泣き散らしたのは、そのような万能感が否定されたことに対する心理的防衛からであった。「私は議員として万能である、しかし議員であるがゆえに大人としての制約を受ける」…。彼にとっての理想的な自己は、自らが実現せんとするところの理想的な社会とほとんど同一である。それゆえに議員としての自身の必死の活動を非難されたことが、そのような理想的な社会の否定、ひいては理想的な自己の否定へとつながり、彼に耐えがたい心理的破綻をもたらしたのである。

しかしながらこの自己像があくまで自己の一局面に過ぎないことを、感情的な場面とは打って変わって冷静沈着としたそれ以外の場面に見て取ることができる。それは幼児的な理想主義者から議員としての本来の立場に切り替わった、ある種の二重見当識のように見える。あるいは「大人」としてのあり方が、コンプレックスとして彼の中に深く根を下ろしているとも言える。

彼はおそらく日頃の政治活動において、至極まっとうな議員であったろう。その精力的な行動力の源泉は、彼が自ら恃むところの子供らしい万能感にある。その子供らしさが議員としてはもとより、大人としてふさわしくないと思うなら、万能であった自身の子供時代を無意識の底から引きずり出すがいい。人々が彼の失態を執拗なまでに反復するのは、子供時代を失った我々もやはり、否定された万能感という外傷を持っているからに他ならない。

ところでどうしても気になったのは、「小さなものが大好きで、ほんとに子供が大好きなんで」という発言である。彼にとって、いやたいていの政治家にとって、子供は所詮自らの政治的理想を投射するための「もの」に過ぎないのだろうか。