夢流し

辺りはあまりに静かでも、頭の中はどんちゃん騒ぎ。京都の地に独り暮らし、苦節の学部生生活を送る京都大学生のブログ。文化、言語、娯楽、心理、生活等に関して、大学における教養科目の講義で得た知識を再解釈および適用し、その知を広く社会に還元することを目指す。

『音楽の基礎』とボーカロイド

音楽の基礎 (岩波新書)

音楽の基礎 (岩波新書)

大学の前期授業が終わり、ゆっくり読書にふける時間ができるとともに、それについて書く余裕もできた。この夏の間、私は二十冊余りもの書籍を、線を引いたり付箋をつけたりしつつ猛烈に読んでいかねばならないが、何か思いついたことがあれば、こうしてここに書くことにしよう。

 

 

芥川也寸志『音楽の基礎』(岩波新書、1970年)を読了した。金2の『芸術学Ⅰ』の講義で、篠原先生の推薦された本である。私は音楽教育の機会に恵まれず、吹奏楽部や弦楽部といった音楽系の部活動にも所属していなかったので、幼少期の才能を台無しにしてしまったとさえ思っていたのだが、最近になって音楽はますます身近な存在になってきた。例えば、太鼓の達人をはじめとする「音ゲー」を頻繁にプレイするようになり、また最近はネットの交友関係もあり、いわゆるボーカロイド曲に代表される、アマチュアの楽曲にも触れ合う機会が多くなった。私にはDTM制作の環境やボーカロイドのソフトウェアもなければ、電子ピアノすらない。その実践は極めて難しい環境にある。(幸運なことに、一人暮らしという状況においては、隣近所への迷惑さえ考えなければ、歌うことは一応可能であった。ところがそれも実家に出戻った現在、再び限定的な状況になった。)しかし書籍によって理論を習得することは可能である。むしろそちらのほうが私には得意である。そういうわけで、私はまず本書によって、理論から抑えようと思ったわけである。

 

さて、本書は次の四つの章からなっている。すなわち、Ⅰ 音楽の素材、Ⅱ 音楽の原則、 音楽の形成、Ⅳ 音楽の構成である。Ⅰ章では、音楽を成り立たせる、静寂と音そのものについて説いている。Ⅱ章では、記譜法、音名、音階、調性について解説している。これらの原則は、このように文章化されて私はようやくある程度理解するのだが、考えて見ればこれらのことは、小中学校の音楽科の教科書に書いていたことであった。そこで説明されていれば私も既に理解できていただろうことを、現行の教育制度ではそうした説明を、子供がハナから理解できないものとして省いてしまう。美術科でもそうであった。色は混ぜるなと指導され、わけもわからず点描させられていた私に、「それは色を純色に分解することによって、混色により色が濁ってしまうのを回避するものです」という説明があれば、小学一年生の私の絵はもう少しよい賞を貰えていたかもしれない。このような聡明な生徒からすれば、このように理解の手助けが取り払われるのはまことにありがた迷惑であるし、その他の聡明な生徒についても、それについて理解する機会が奪われていることには、はなはだ憤らしい。さてそれはそれとして、この書によって私は、ドレミファソラシドという音階にはちゃんとした理論があること、調性の調号はでたらめにつけられているのではないこと、などを理解した。私はハ長調イ短調の楽譜以外ろくに読めなかったのだが、この本を頼りに、いちおうそれがどの調で、どの音が基音なのかくらいはわかるようになった。Ⅲ章では、リズム、旋律、それから速度と表情について、西洋音楽に限らず様々な音楽の例を交えて解説されている。とりわけ日本の音楽――単純な楽器から複雑な音楽へ――と、ヨーロッパの音楽――複雑な楽器から単純な音楽へ――との対比には、なるほどと思わされる。Ⅳ章では、再び古典的西洋音楽について、音程、和声、対位法、形式について解説がなされる。

 

しかしながら本書は、むしろ現代音楽へと目を向けている。そしてそれらを理解するに当たり、次のように助言している。「みずから創造的な感性をもって、音楽のなかへ立入っていかないかぎり、現代音楽は生きた存在となって呼吸をともにすることはなく、そこに音楽の営みは生まれない。」一方で著者は、このようにも書いている。「そして現在、若い作曲家たちの手によって、リズムはコンピューターによって導きだされるような冷酷な装いを、ふたたび見せはじめている。」本書が上梓されたのは1970年であった。

2013年の現在に至るまで、時代は様々な音楽を経験した。その中でもとりわけ影響が大きかったのは、1970年代後半の、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の登場であったろう。シンセサイザーやコンピュータを用いた彼らのテクノ・ミュージックは、音楽に対する人々の認識を大きく変えたに違いない。この本があと十年後にかかれていたら、電子音楽に対する本書の評価も、大きく変わっていたことだろう。

そして今現在、それに次ぐ、あるいはそれをも超える、とてつもなく大きな変革を音楽文化、ないし音楽業界に巻き起こしているのは、ヤマハ株式会社による音声合成技術、およびその応用ソフトウェアである『VOCALOIDボーカロイド)』と、それに歌声ライブラリを用い、キャラクタライズした、『初音ミク』をはじめとする商品、ないしそのイメージキャラクターであろう。それを用いた楽曲、およびそれにまつわる現象については、いまさら個別的に取り上げるまでもない。

むしろここで注目すべきなのは、その楽曲をめぐる関係性である。すなわち、楽曲の制作者、いわゆる「ボカロP」は、ボーカロイドを用いて楽曲を制作し、インターネット上に公開する。それを視聴した者の中から、「歌ってみた」というカテゴリのもと、「歌い手」を称して楽曲を歌唱し、公開する者が出てくる。あるいは楽曲をモチーフとして、絵画や動画といった映像が制作・公開される。そうして公開された作品もまたその楽曲世界に取り込まれ、楽曲は大きな世界を構成する。そしてそれらの関係性は、遷移的であり、融合的である。

こうした連関の美学的考察はひとまず措くとして、ここではそうした楽曲を「歌う」あるいはそれについて「かく」といった行為が、広い意味での演奏(performance)と見ることができるのであり、それは楽曲、およびその世界を、自らのうちに取り込む行為であることを指摘するにとどめよう。というのも、「「音楽」という名の音楽、いわば〈音楽そのもの〉はつねに私たち自身の内部にしか存在しない」のだから。想像力溢れる若い制作者によって用意された楽曲は、のっぴきならないものとしてその若い聞き手に共感を呼び起こす。その共感を放ったまま、聞き流しているわけにはいかない。「作曲する、演奏するという行為は、それをポジティブな世界におきかえる作業にほかならない。」このようにして、我々は楽曲を橋渡しとして、楽曲世界を共有する。「作り手→弾き手→聞き手→作り手という循環にこそ音楽の営みがあるということは、遠い昔もいまも変りがない。」この楽曲そのものの「作り手」に関して、ボーカロイドはそれまで作り手だけではお手上げだった声楽の領域を、完全に制御可能な器楽のうちに取り込むことで解消した。そうしてはじめて、この循環は再び廻り始めるのである。「この創造的な営みこそ、あらゆる意味で音楽の基礎である。」