夢流し

辺りはあまりに静かでも、頭の中はどんちゃん騒ぎ。京都の地に独り暮らし、苦節の学部生生活を送る京都大学生のブログ。文化、言語、娯楽、心理、生活等に関して、大学における教養科目の講義で得た知識を再解釈および適用し、その知を広く社会に還元することを目指す。

梅棹忠夫『知的生産の技術』 感想文

もう二か月以上も前に読んだ『知的生産の技術』(梅棹忠夫著、岩波新書)についての感想文というか、要約と私の意見のようなものを、今更ながらまとめました。私用に書いたもので、ブログ掲載には文体を変えようと思っていたのですが、予想以上に長くなってしまったのでそのまま貼ることにします。当書の購入を考えている方や、知的生産の必要を感じている方は参考にしてください。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

 

 吉田の生協で見かけたもの。当初については以前から読みたいと思っていたが、立ち読みしてみると、知的生産という発想はまさしく私がそれまで抱いていたもので、梅棹氏が当初行っていた手帳への書き込みなども、ちょうど私が思いついた事柄を忘れないように(忘れてもよいように)メモ帳に書き込んでいたのと同じであった。どんどん読み進めて行ったが、発想を記録する方法から活用する方法まで、知的生産という行為に大いに資するものであった。京大式カードの利用やバーチカル・ファイリングに至っては、非常に合理的に思われたのですぐに実行した。当初は古くに出版されたものだが、発想は今でも十分通用するものであるし、活字や筆記の問題など、現代の私たちには知る術もなかった事柄も書かれていて勉強になった。

はじめに
 知的生産という考え方についての説明が述べられている。学校は知識を教えてはくれるが、その獲得の仕方や利用の仕方については教えてくれない。大学に行っても同じことで、研究の手法や発想の創出の方法を自力で身につけなければ、学問というものはできない。書籍を単に娯楽のために読んだり、現代ならインターネットをいたずらにブラウズするのを知的消費というのに対し、それらの知識や情報を利用し、そこから新たな知識や情報を生み出すことを、知的生産という。

一、    発見の手帳
 私は予備校生になったくらいから、時に頭の中に閃く言葉や概念を書き残すことができるように、自ら「インスピレーション・ノート」と名付けるメモ帳を常備し、何か思いついたことがあればそこに書き込むようになった。こうした発想は、その内容どころかともすれば発想をしたということすら忘れてしまうので、何らかの媒体に記録として残す必要を感じていたからである。それまでは携帯電話の保存メールとして記録していたが、これでは入力も遅くて不便なので、結局原始的な手での筆記という形に落ち着いた。結局のところ、人間の、あるいは少なくとも私の記憶力はあまりに頼りないという自覚から、この様な形で文書として記録しておく必要があったのである。このメモ帳の商品名は、『Don’t forget!』だった。
驚くべきことは、同様の事を梅棹氏も、さらにレオナルド・ダ・ヴィンチも行っていたという事である。何かを思いついたら、それを無心にメモ帳に書きつけるということであった。ちょうど「メモ魔」というところのものである。梅棹氏の言葉にはっと気づかされたのは、それが発想を忘れないためではなく、むしろ「忘れてもよいように」メモするのだ、ということである。なるほど、そのメモは英単語を記憶する時のように忘れないように書くのではなく、むしろ忘れてしまっても後で見返すことができるように、また記憶にとどめておくことに余剰なエネルギーを費やさないために記録するのだ。
ただしここで梅棹氏が注意していることは、それが一時的な覚書に終わらないようにせよ、ということである。一つは、あまりに記号化され概念化された記述だと、後に自分が読み返しても、その意味が解せないことがある。当時の自分と今の自分は必ずしも同じ考え方ができるとは限らないので、後の自分が読んでもその内容が理解できるように、「豆論文」とも言うべきような、完結した文章を書かなくてはならない。もう一つは、それらの情報を活用できるように、見出しを付けたり目録を作成したり、それらのメモを再利用する準備をしておかなければならない。メモを書いたまま放置してしまうと、知的生産に結び付かない。

二、    ノートからカードへ
三、    カードとそのつかいかた
 ノートの利用に関する諸問題に関しては、私も大いに同意するところがあった。一つはノートの記述が時系列に固定されていることで、記述内容を柔軟に操作できないことである。これは単に各場所を間違えたり、便宜的に本来あるべき箇所とは異なる場所に描いてしまった場合、それらの記述の移動が極めて煩雑であることだけでなく、自らの発想に従って、それらの知識や情報を操作することが困難であるということである。私のノートの利用法自体があまり良くないことはもとより自覚しているのだが、それに代わる方法が私には思い浮かばなかった。せいぜい後に切り貼りすべき内容に関しては、ルーズリーフに書くといった程度のものである。ここでノートに替わるものとして登場するのがカード、とりわけ氏の開発した京大式カードである。B6版の厚紙に、日付とタイトルをつけ、発想を文章として書きつけて残すというものである。日付はカード同士を並び替えてもその時系列を保持できるように、タイトルは一目でその内容がわかるように、そして内容は一枚のカードにつき一つだけ、後に読んでも理解できるように、完結した文章として書かれなければならない。これらのカードを整理し、時々目にしたり並び替えたりすることで、また新たな発想が生まれることもある。(操作というこの手法をさらに改良したのが稲垣耕一氏の『メリーゴーラウンド法』である。)このようにして知的生産の基盤を用意するのである。
 氏は規格化された商品はしばしば企業の都合で規格を変更されるので、自分でカードを用意することを薦めていたが、私はひとまずコレクト社の『情報カード B6 京大式 C-602』を購入して使用した。ちょうど手元にあった、このサイズの紙がちょうど入る公文式教室でもらった見開き両面式の半透明ファイルに、その左面に未記入のものを、右面に記入済みのものをいれるようにして、外出などの際には常備するようにした。
 書いているうちに、自分でもこれをいくらか改良した。すべてのカードには日付を付け、また一から番号を振った。一つの完結した文章を書くというのは、発想を書きつけるのに比べて結構骨が折れる。左のスペースは最初概念の見出しとして言葉を並べていたが、後にこのスペースは文章をまとめるために概念を視覚化するスペースとして用いた。こうすれば結果的に内容を端的に表した言葉が並ぶことになり、文章をまとめるための絵や図などの視覚的な表現は後にその発想の図解としてうまく作用することになる。

四、    きりぬきと規格化
 ここにはきりぬきという情報保存の方法を氏自身も行ったことが書かれている。私は切り貼りという作業が面倒だし、身近でそれを行っている人も見たことがなかったから、スクラップブックを利用したことが無かったのだが、文房具店などに行けば大抵コクヨ社の者が置いていて、根強い人気があるようである。新聞など時系列のものを保存するには適しているのだが、これもやはり順番を操作できないという欠点がある。しかしサイズの異なる新聞や雑誌の切り抜きを、あるサイズの規格に統一するという事には大きな意味がある。これも冊子にせずにカードを使えばよいというわけで、氏は切抜きや名刺なども、カードに切り貼りして規格を統一してしまうのだという。

五、    整理と事務
 まず、我々は何気なしに整理整頓という語を使うが、整頓という語が単に物を片付けるだけなのに対し、整理という語はそれを利用できるように秩序立てて並べることを意味するのだという記述を読んではっと気づかされた。私の部屋には整理も整頓もできない物で溢れかえっていて、その中心が過去の学習教材だけれども、それらを捨ててしまえば部屋の整頓にはなるだろうが、それは文書化された記憶をも捨ててしまう蛮行である。それらを秩序立てて並べ、再利用できるようになれば、つまり整頓できれば、どれだけよいことだろうと思った。
また私はこれまで事務というものに全く関心がなかったのだが、物事を整理する方法という点では非常に進んでいるそうだ。この事務における整理の手法もいろいろあるのだが、ここで紹介されていた垂直式ファイリングの考え方に私も同意した。大綱としては、文書を横に寝かせてはならないということである。なるほど、上へ上へと積み重ねた文書類は、目当てのものを見つけ出すのにその塔を崩してゆかねばならず、検索が非常に面倒である。そこで文書を縦に立てるのだ。しかしプリント類などそのままでは立てることができない。そこでオープン・ファイルというものを利用する。厚紙を二つ折にしたフォルダに、見出し用の耳がついた単純なもので、パソコンを使う我々にはお馴染みの形のフォルダであるが、それが実際にこのような形をしているとは、これまで発想にのぼってこなかった。文書は類別ごとにこれに挟んで立ててしまえばよいというのだからめっぽう楽である。そしてこのフォルダに挟むことで、文書の集まりが規格化、単位化されるというわけである。私はすぐにこれを実行しようとしたが、このフォルダというものがなかなか見つからない。個別ファイルという名前で流通しているようだが、クリアブックやバインダーに比べると、当時から日本では流行っていないようである。このオープン・ファイルをさらに、キャビネットで分類したものがキャビネット・ファイルであると理解しているが、これについては、フォルダの中をさらにクリアファイルで分類するのがひとまずはよいと私は思った。ともかくも生協などでなんとかこの個別ファイルを手に入れ、早速それまで死蔵していた、大学の講義で得られたルーズリーフへのノートやプリント類を挟むと、大変見通しが良い。それまで手の付けようのなかったプリント類を捨てるのではなく、分類することで保存し、また利用できるようになるというのは、私にとって大きな発想の転換であった。
またこのようにして利用できる形に整理した文書を、仕事場に設置する。保管する文書と、ソースとして利用する文書を分類するのは重要である。書籍についても、保存すべき書籍はは図書室に、作業のために保管したり、情報源としてすぐに利用するための書籍は、仕事場である書斎に置き、すぐ手に取れるようにしておく。私はそれまで図書室と書斎の違いが良くわからなかったが、なるほど書斎というのは書の斎場、心を静めて研究や仕事に向かうための場所である。それゆえ書斎には、自分の心をかき乱すことのないように、秩序としずけさがなければならない。書斎は必ずしも広い必要はない。むしろ機能的である限りでは、居ながらにして求めるものが手に届くように狭くても良い。これは広い場所の得られなかった私にとって、大変に救いである。

六、読書
読書によって得た、あるいは発想した知識をいかにして活用するかが書かれている。私などはこれでも物覚えの良いほうで、何かにつけて完全ではないにしても本や授業で得た知識を引き合いに出すことができるのだが、読書が好きでたくさん本を読む人でさえ、こうした能力のない者も多そうである。また読書は単に知識を得るだけでなく、それが自分にぶつかることで新たに発想を生み出す行為でもある。著者の主張はその本にまとめられているのだから、その本をまとめ直す必要はなく、むしろそこから生まれた自分の主張をまとめるべきであると、その点私も大いに同意する。そこで自分の読んだ本で気になった箇所には線を引いておき、思いついた事柄は本に書き込む。本は熱意のあるうちに一気に読み終わったほうがよいが、その熱意が冷めて客観的な分析ができるようになってから、傍線を引いた箇所や書き込んだ事柄について、カードにまとめるとよい。これとは別に、読書カードを作成し、いつどの本を読んだかわかるようにしておくと、自分がどれだけ本を読んだか、というよりどの程度しか読めてないかがわかる。しかしやはり本自体に書き込むというのは私にとって大変抵抗があるので、ひとまずは付箋を貼ったり、そこに書き込んだりすることでその代わりとしようと思った。読書カードは用意していないが、読んでいた期間の日付や出版情報などは記録するようにした。

七、    ペンからタイプライターへ
 この章からは、この本の書かれた時代の、筆記をとりまく状況が非常によく観察された。当時は英字のタイプライターしかなく、現在のような漢字かな交じり文の書ける機構がなかった、つまりパソコンやワープロが無かった。つまり画一的で美しい日本語を、手早く出力する方法が、書くより他に無かったのである。これは知的生産という点において致命的であり、研究活動において欧米諸国に大きく後れを取るものであった。こうした文脈においてこそ、ローマ字国字論、あるいは漢字廃止論というものが生まれたのである。彼らにとっては、ローマ字であれかなであれ、タイプライターを用いて自らの言語で表記できるようになることが先決だったのである。現代の視点から表現の豊かさを廃する愚かな試みと貶めるべきではないし、こうした文字だけで日本語をうまく表記しようとした努力、具体的には分かち書きをするとか漢字語を使わないようにするといったところに、日本語の本質を見出したという利益もあったのだ。幸運なことに、その後文字コード表が制定され、ワープロやパソコンが普及して、我々はキーボードで極めてスピーディーにかつ美しく日本語を表記できるようになった。それでもなお手書きの重要性が失われたわけではない。
 氏にしても先日講義を聞いた教授にしても、万年筆といったペン書きを薦めるのだが、私はこれに全く賛同出来ない。ペンで書いた字は修正できないし、手にインクが付いて髪を汚してしまうこともある(これに関しては改善されたインクもあるようだが)。第一私はボールペンのあのぬるぬるした書き心地が好きでなく、また万年筆をまともに使えたことがない。一方鉛筆書きは進化して今ではシャープペンシルが普及し、それもか着心地の追究された様々なものが各社から出ている。手書き周りが進歩しているのは、文房具についても同様である。やはり私はシャープペンシルの方が便利なので、当面はこれに拘りたい。しかし実際ほとんど触ったことのないペンについても、慣れて見るとそちらの方が心地よい事があるかもしれないから、ペンの意義を完全否定することもしない。

八、    手紙
 私は手紙をほとんど書くことがないが、書こうと思えば書けないでもない。先日親戚より成人祝いの手紙が来たので、もう成人だからということで久しぶりに葉書に書いて返したが、我ながらなかなかの名文だと思った。しかし大抵の人々はこのような手紙の文章が書けない。氏はそれが手紙の定型を持っていないからだと主張する。なるほど私の中には、時候の挨拶、話題の導入、相手を察する帰結というある種のテンプレートを、それまで目にした手紙や学校からのお知らせなどから既に身に着けている。私も含め、ほとんどの人々は自分の心情を美しい言葉にした名文など書けない。そこで形式が必要となるわけだが、内容第一主義から形式は否定され、また真情を述べるには名文を自力で生み出す必要があり、結果手紙をやり取りする習慣も無くなってしまったのだという。新たな形式の再建が必要だと述べられているが、その形式もいまだに確立していないように思われる。
 もう一つ、手紙をやり取りする際には、自分の書いた手紙をコピーしておくようにということだ。でないと後で手紙を見返す際に、自分がどのような旨の返事をしたかがわからないので、その応酬を追うことができないためである。

九、    日記と記録
 日記を付けるという行為は、その日の出来事や感じた事を記録するものである反面、将来それを見返して当時の出来事を確認したり心情を追体験するためのものでもある。昨日の自分と今日の自分は別者であり、日記は未来の自分への手紙である。しかしその内容は必ずしも心情を述べなければならないものではない。むしろ氏の主張するのは自分への業務報告としての日記である。確かに現在古典とされているほとんどの日記は、宮廷での業務記録に過ぎなかった。その日の自分の出来事をずっと記憶しておかなくてもよいように、日記に書いて忘れてもよいようにしておくのである。そういう意味では日記は冊子である必要もないし、時系列に並んでいる必要もない。氏は日記もカードに書いてしまうという。

十、    原稿
 原稿の書き方については、多くの大学生にとって喫緊の問題であろう。かくいう私も個別の文章は書けても、レポートや論文の書き方を知らないので、これらの書き方を学ぶ必要がある。目下のところは清水幾太郎の『論文の書き方』を参考にする予定である。ここで述べられているのは、もっと広い意味での原稿の書き方である。
 まず原稿は他人に見せるものであるから、形式に乗っ取って人が読んでわかりやすいように書く必要があるのだが、これが多くの大学生にはできていない。原稿を書くという訓練がなされていないことが問題ということだ。大学生のみならず、学者でさえまともな論文が書けていないというものもいるということだ。そもそも、句読点に一マスを費やすかどうかとか、原稿の形式というものが出版社の間でも定着していない。結果苦労するのは編集者なので、これらの形式の統一が必要であろうと氏は説いている。さらにレポート用紙や一般的な四百字詰めの原稿用紙についても氏は疑問を呈している。レポート用紙などは読む方も読みにくくて仕方がなく、どうしてこんなものが一般的なのか理解に苦しむとのことであるが、これも氏の先の大学ノートへの減給と同様に、英字を筆記することを本来の用途とされているからではないだろうかと私は推測する。後者については、真中のスペースの意義がどうにもわからないかと思ったら、二つ折りにするための古くからの慣例だということだ。これなどはすっかり形骸化しているので、二百字詰めの原稿用紙を使用すべきだと氏は薦めるのだが、残念ながらそのような原稿用紙を私はこれまで目にしたことが無い。
提出する文書はコピーを取れと言うのは、学部の課題レポートの提出の際にも言われたことで、大学では自分の出した文書は返却されない。即時的に書いて提出する者はその隙がないので仕方ないのだが、手書きで書いた文書はコピーして取っておきたいものだと思う。その点パソコンで書けば出力せずともパソコンの中に文書を保存できるので便利である。

十一、文章
私などは人に比べて文章を書くのがずっと上手いと自負しているのだが、多くの人にとっては容易い事ではなく、苦痛でしかないという人もいるだろう。学者の中にも、研究自体は素晴らしいのに、それを書くとなるとさっぱり、という者がいるのだそうだ。梅棹氏自身も、文章を書くのはそれほど得意ではないということである。やはり文章を書けるようになるためには、一つは訓練が必要であろうと氏は主張する。考えてみれば私も、幼いころから公文式で国語を勉強し、中学以降は文章の内容をまとめる要約問題を苦しみながらよくやった。要約問題自体はあまり得意ではなかったが、実用的な面では大いに役に立っているようである。もう一つ、私は早くからパソコンを使うようになって、文章も当時からたくさん書いた。パソコンで文章を書くというのは、手書きで文章を書くのと違って、言葉を書きながらその順番を自由に並び替えることができる、いわば視覚的に組み立てることができる。パソコンでなくとも、私は何か文章を書く前に、頭の中の概念を一度言葉にしてみて、それらの関係性を可視化し確認してから文章を組み立てる、ということをよくする(この方法も考えてみれば中学や高校で習得したものである。ありがたい事だ)。文章を頭の中で組み立てるのは極めて高度なことであり、それを解決する手段として、一度紙面で図式化して可視化するというものがある。数学の問題を解くときなどにも用いる常套手段であるが、これを文章を書くのに利用している人はどれくらいいるだろうか。おうした方法の一つとして氏が提唱するのが、京大式カードと共に良く知られたこざね法である。頭の中にある断片的な言葉を、小さな紙にそれぞれ書く。言葉を紙の上に出し切ったところで、関連性のあるそれぞれの言葉をホッチキス等で連ねていく。その間新しい言葉が閃いたらまた紙に書きつけて連ねる。こうしてできた紙の連なりを、論理的に並べ、また連ねてゆく。こうして出来た紙の連なり―氏がこざねと呼ぶ所のもの―は、ちょうど頭の中の思考を可視化したものであるから、あとはこれらに書かれた言葉に、文章としての肉付けをしていけば、立派な論文の完成、というわけである。同様の方法として、やはり京都大学出身の文化人類学者、川喜田二郎氏の発明したKJ方というものもある。これらも十分有用であるが、私は視覚的操作という点でこれらを踏まえ改良した、今年京都大学工学部情報学科の教授を退職なさった稲垣耕一氏のメリーゴーラウンド法がより便利であると思う。先の京大式カードとこざね法を合わせたものとも言えるかもしれない。

おわりに
氏の指摘した通り、やがて情報化時代が到来し、パソコンの取り扱い方なども学校教育に取り入れられ、我々の知的生産は飛躍的に向上した。しかしながら知的生産の技術の体系化という点では、現代においてもやはり改善の余地を多く残しているように思われる。クリエイティビティを生かすための、思考を形にする体系の確立が今なお急務である。

 

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)