夢流し

辺りはあまりに静かでも、頭の中はどんちゃん騒ぎ。京都の地に独り暮らし、苦節の学部生生活を送る京都大学生のブログ。文化、言語、娯楽、心理、生活等に関して、大学における教養科目の講義で得た知識を再解釈および適用し、その知を広く社会に還元することを目指す。

「男女が制服を交換し、男女の価値観について見つめ直す授業」に対する批判

男女が制服交換し一日を…山梨の高校で試み
男女制服交換:299人がチャレンジ 山梨の高校で
高校生が男女で制服交換 「らしさ」見つめる試み 山梨

 山梨県の県立富士北陵高校で、有志生徒が男女で学校制服を交換して一日を過ごす試みがなされた。"sex"と"exchange"の二語を併せて「セクスチェンジ・デー」と呼ばれるこの企画は生徒の立案によるもので、普段と異なる視点を通して、常識にとらわれることなく男女の価値観を見つめ直すことが狙いだという。この授業の成果をもとに、富士北陵高校は男女それぞれの価値観を尊重した学校づくりを目指すとしている。

 テレビ報道や誌上では、「男らしさ」「女らしさ」について考え直す画期的な試みとして、おおむね好意的に取り上げられている。他方でネット上では「真摯さがなく、ふざけている」「セクシャルマイノリティへの理解に繋がらない」などと批判的な意見も見られた。

 さて、私はこの企画について指摘しておきたい点が一つある。この試みは「男らしさ」「女らしさ」といった男女の性役割を、むしろ強化する方向に働くということである。

  どういうことか。この企画が「男女の価値観」について見直すことを目標としている以上、そこには当然「男らしさ」「女らしさ」といった性役割を含む「男女 の価値観」が社会的に存在していることが前提とされている。それを最も象徴的な形で担う学校制服を男女間で交換することによって、異性の性役割を体験する というのがこの企画の意義であった。

 このとき異性の制服を着たという体験は、異性がその性として生きる体験そのものには必ずしも結びつかない。なぜならそれは学校において制服を着るという制度のなかで得られた「異性」の経験に過ぎないからである。男も女も制服によって、ある性別としての振る舞い、すなわち性役割を強いられていることを、参加者は知ることになるのである。

  そして彼らの「異性」としての非日常の体験は、日常の性的自己同一性を客体化し、より自覚的なものにするだろう。彼らは今日を限りに、再び自身の性別の制 服を着なければならないのだから。異性装という行為そのものは、本来こうした制度をすり抜ける柔軟性を持っている。しかし学校という制度の中においては、 彼らはその性別でしかありえない。

 私がこの企画にどこか息苦しい印象を覚えるのはこの一点においてである。結局の所この試みは、男女別の学校制服という制度の内から出ていない。性別ごとに割り当てられる制服が、男女で入れ替わっただけである。

 参加者の女子生徒においては苦にならない生徒が多かったのに対し、男子は居心地の悪さを感じたというのは、性役割のありようをよく表している。女性、とりわけ若年の女子は日常的に男性的な視線をますます獲得しつつある。 これは先に述べたように社会における女性の地位と処遇が向上したからであろう、というのも女性をそこに迎え入れるという形を取った社会は、本来的に男性の (幻想的な)共同体だからである。ただし二村ヒトシの言うように、女性でありながら「男目線」を持ち、「男と女の社会/女だけの社会」をともに生きること は「しんどい」*。一方の男性においてはその同質的な社会性のため、異性と交流のある一定の割合しかそのような目線を持ちえない。ここにおいてもジェン ダーは非対称である。そして制服という規律こそは、まさしくその非対称な性役割を少年少女に身体化させる装置なのである。
*二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』、文庫ぎんが堂、2014年、95-103頁。

  もちろん、ジェンダー規範が解体してゆくままに、学校制服という制度を全く廃止してしまうのにも問題がないではない。世界的に女性の人権運動が躍進した七 十年代、日本では八十年代以降、人々の間で共有されていたそれまでの性規範が崩れ、若者の性行動の乱れが顕著になった。そのような時代にあって、まさしく 学校の外部において制服がその制度性を漂白し、それを指し示すための記号として利用された女子中高生の援助交際はその最たる例であろう。学校制服は良くも 悪くも、すでに日本の文化の一要素である。

 それでは制服は今後どうあるべきか。私が考えるには、そこに多様性と自主性が取り入れられるべきだ。 制服に「男らしさ」「女らしさ」を残しつつ、それらを自身の性別に関係なく選択することができる。ファッション性や利便性の観点から、ズボンを穿く女子や スカートを穿く男子があっていいと思う。制服の制度性は保持しつつ、日常の服装と同じように選択の余地を設けるのだ。もし制服についてこのような選択が可 能だったなら、私は性別を含めた自身のあり方に対して、もう少し主体的に向き合えたのではないかと思うのである。

 男女の制服を交換するという今回の試みは、それ自体は面白いものであった。しかしその前提として常識とされている、そもそも制服がどうして男女で区別される必要があるのか、その価値観についてこそ人々は見つめ直すべきだったのではないだろうか。