夢流し

辺りはあまりに静かでも、頭の中はどんちゃん騒ぎ。京都の地に独り暮らし、苦節の学部生生活を送る京都大学生のブログ。文化、言語、娯楽、心理、生活等に関して、大学における教養科目の講義で得た知識を再解釈および適用し、その知を広く社会に還元することを目指す。

11月祭と《集合的沸騰》

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もう二週間も前のことになってしまったが、京都大学11月祭があった。
NFももう三回目である。一年目はそれなりに企画も回ったが、二年目は講演会を聴いたぐらいで、クラス企画もなければサークルにも所属していない僕にはただ雰囲気を楽しむだけの行事だった。
しかし今年はそうではない。祭を楽しむ心構えができた。
心構えというのは、その熱狂を冷ややかに見過ごすのではなく、そこに呑み込まれ同調する覚悟のことである。
この11月祭の間に、僕は二回の《集合的沸騰》を経験した。

《集合的沸騰》は、 宗教社会学デュルケーム(E.Durkheim)の提唱した概念で、宗教的儀式の中で生じる人々の熱狂状態のことである。この現象は宗教に限らず、ライ ブやスポーツなど、ある種の《カリスマ》を大勢のファンやサポーターが前にした時にも見られるものである。こうした非日常な場こそは聖俗二元論における 《聖》あるいは《ハレ》の場であって、日常の《俗》あるいは《ケ》とは異なった行動様式を引き出す。さらにこうしたトランス状態は集団でなくとも二者間や 一人でも引き起こせるのであり、これを宮台は《変性意識状態》と呼ぶ。

最初の《集団的沸騰》は前夜祭のフィナーレである。前夜祭は今回初めてまともに観覧した。クイズなどはしょうもなかったが、最後の応援団の演舞が見たかったのだ。
大変な迫力であった。ダンスやチアリーディングもそうであるが、応援団というのは規範化された身体の型を壮烈に表現するものであり、それも極めて男性的である。なるほど彼らはマッチョな存在であり、それゆえカッコイイのである。
さて、そのあとフィナーレというものが始まった。どういうものかと見ていると、前に坐っていた観衆が一斉に舞台の元に集結する。ここでソるのでは今までと何も変わっていないと思い、私もその流れにノった。
舞 台の上で始まったのは、京都大学学歌・第一応援歌、「新生の息吹」の力強い歌唱であった。すると舞台の下でも人々が波を作って大斉唱が始まる。右隣の女性 に肩を組まれ(これは僕にとってすごい衝撃であった)、僕も両隣に腕を回し、目の前に貼り出された歌詞を見ながら波に揺られて訳も分からず歌を歌う。何度 も何度も。
「新生の 息吹に満ちて 息吹に満ちて 躍動の 若き腕に 勝利分たん 守れ 守れ 守れ 母校の栄誉 京都大学 京都大学
そ れを何度繰り返したか分からないが、最後に舞台から酒やらお菓子やらがばら撒かれ、それに気を取られているとフィナーレの終わりが宣言され、さっきまで寄 せ集まっていた人々はあっけなく解散してしまった。お菓子を拾いながら、僕はまだ興奮していて、先の歌を歌いながらグラウンドをぴょんぴょん跳ね回ってい た。このような経験を、僕は今までほとんどすることがなかったのだ。

次の《集合的沸騰》は、NF目玉のスペシャルライブ、歌い手ピコのライブで あった。ちなみに去年のスペシャルライブも歌い手でChouCho、その前の年はヒャダインである。ピコの歌はアニメ『貧乏神が!』のオープニング曲 『Make My Day!』しか知らないのだが、両声類の歌というものを一度この耳で聞いてみたかったのだ。このライブにはピコのファンである学外の友達二人とやって来 て、それはもう楽しいもので書きたいことがたくさんあるのだが、ここでは話をライブに限ろう。
とはいえライブの前からすでに盛り上がっていて、ニコニコ動画の踊ってみたサークルの企画にはしゃいでいた。それが終わるとすぐに座席に詰め込み、開始直前には舞台の下に押し寄せた。前から二つか三つ目の、歌手が非常によく見える場所である。
ここまで来ると周りはファンばかりで、ピコが現れると熱狂が始まった。歌では皆がある種のフリをするので、僕もそれに合わせて手を突きだしていた。周りのファンや歌手による歌に同調しているようで、心地が良い。フリのタイミングもなんとなく分かってきた。
そ してあっという間に30分のライブが終わると、お決まりのアンコールが始まる。そこでピコが歌ったのが、やはりお決まりの『千本桜』であった。そしてこの 曲において、会場の盛り上がりは最高潮となる。飛び跳ね、合いの手を入れ、舞台の方へ手を伸ばす。友達も興奮してはしゃいでいる。これはもう本当に楽し い。このような場を共有できる友達はこれまでにいない。
ライブが本当に終わっても、まだまだ興奮は冷めなかった。奮発して屋台の食べ物を奢り、浮かれた気分でおしゃべりしたあと、そのままカラオケに行った。そこでも最後はやっぱり『千本桜』だった。

今 までの自分を振り返れば、こうした《集合的沸騰》にどうしてもノることが出来なかった。それは彼らと信条(?)を同じくしていない自覚があったからだし、 彼らからソることそのものが僕の在りうる術だったからだ。その集団に同化してしまったが最後、僕はここから消えてしまう。僕にはそれが怖かった。
しかし個として在ろうとすることは、かえって僕を虚しくさせる。社会からの逸脱は実存からの疎外であり、生きるためにこしらえた道が果てには死へと繋がるのである。
ならば己を世界に没入し、世界そのものとして生きるべきだ。世界を通して他者を見るために、僕は主体性を捨てねばならない。それでも世界を律する術を、僕はもうすでに身に付けているはずだ。