夢流し

辺りはあまりに静かでも、頭の中はどんちゃん騒ぎ。京都の地に独り暮らし、苦節の学部生生活を送る京都大学生のブログ。文化、言語、娯楽、心理、生活等に関して、大学における教養科目の講義で得た知識を再解釈および適用し、その知を広く社会に還元することを目指す。

英語が話せる「天才」キッズ?

先程、TBS系列の報道番組『情報7days ニュースキャスター』で、『1歳から学ぶ!?英語 天才キッズが急増中!』という特集をやっていたのが気になったので、僕の思うことを書いておきたいと思う。
まず、表題にも挙げられ、特集の中でも強調されていた、英語が話せる「天才」の子供たちという文言が、センター英語の筆記で満点を獲るような、人の言うところの「天才」でありながら、英語を早期からやれば英語の喋れる賢い子になるという「英」才教育の大嫌いな私にはすごく気に障った。英語が話せたら天才などとは、何という「天才」の冒瀆であろうか!そもそも天才という言葉自体、意味が薄っぺらくなってしまっているが本来天賦の才の事であるから、親御様方の熱心な英語教育のお蔭でその子供が結果的に英語に鞭撻になったとしても、それを天才と呼べるかははなはだ疑わしい、機会さえあればそんな「天才」はいくらでも出現することになるだろうから。それはともかく、それでは英語を喋れる英米人は皆天才なのか、現時点での世界のコミュニケーションにおける実質的な共通語であり、その一方で学術論文で最も使用される「論理的な」言語である英語を操る人間が天才なのかというと、後者についてはともかくも、前者の意図はないと思う。少なくともここで彼らの言おうとしているところは、日本人、それもほんの子供が、英語を(補助言語ではなく)第二言語として使用することができるということそれ自体である。そのための教育がうまくいったことに対する満足感と、自分がその親であるという気負いがその親らを増長させているところがあるにせよ、彼らが自分の子に英語を学ばせるその動機は、英語が話せることにより世界で活躍できるようになると信じているからであり、マスコミもそれが行き詰った日本の現状を打開する可能性を持つ、それゆえ善い事だとして英語教育の重要性を喧伝する。では果たして、英語を理解する、英語が話せることそれ自体に本当に意味があるのか?こう改めて問題提起しないとその浅はかさに気付かないくらい、広い世界を見ようとする人々の目が思いのほか狭いということに、僕は危機を感じているのである。
英語が国際的に重要な位置を占めているという事の客観的判断は、上に挙げたような二つの現状からできると思う。一つは学術的共通語ということであり、日本では特に第二次世界大戦敗戦以後、これを学生に教育して身に着けさせるために、英語のリテラシー、すなわち英語を読み書きする能力の教育に徹底してきた。ここでは英語はそれを通じて世界から情報を吸収し、同時に世界に情報を発信する手段である。そこでは日本人が主体なのである。このことについては、大学の研究機関を見てもかなり成功していると思う。山中教授のiPS細胞に関する研究が世界の目に触れるのが英語で記述されたものであっても、それをやってのけたのは間違いなく日本人なのだ。一方アメリカにおける学術的発見はもはや合衆国としての発見であってそれがどんな人によってなされたかは案外顧みられず、英語の本場イギリスはそうした発表がお手のものと思われるのに大した学術的成果も耳にしないというのは皮肉なことである。もう一つはコミュニケーションにおける共有語、言い換えるならば生活的共有語とも呼べるものであり、私はこのような英語が日本人の思考や生活を、さらには日本人としてのアイデンティティを蝕むのではないかと懸念しているのである。もし本当に英語を日常生活のレベルで定着させたいのであればどこか外国にでも引っ越せばいいところを、日本に住んでいることにこだわるのは、その親ら自身が英語を喋れないことによる不便はさておいても、やはり日本人として生まれた以上、政治的亡命の意図でもない限り自分たちは日本人であって、日本という地に足をついていなければならないと感じるからであろう。日本人として誇りに思うところ、現代においては科学技術を挙げるならば、トヨタ、ソニー、パナソニック、東芝…そんな企業の名前が挙がるだろうが、それらが今は世界に幅を利かせる多国籍企業であっても、その国際的成功の秘訣が英語を喋れるというところにあったのか?松下幸之助氏は英語に鞭撻だったか?盛田昭夫氏が英語に鞭撻だったとして、それは世界で暮らしてきたからか?仮に世界で暮らしてきたとして、それを果たして日本人と呼べるだろうか?英語という手段が目的に転じてしまい、我々は自らが日本人であるという自覚も誇りも失おうとしているように思われてならない。
こうした問題は、英語をそれ単体で取り扱おうとしていること、例えるならば西洋料理を目の前にナイフとフォークだけを与えて、その使い方とテーブルマナーを教えていないところにある。すなわち、現代の英語教育には、このテーブルマナーに当たる、英語のその背景にある西洋文化、もっと厳密に言えばアメリカ文化に関する知識という観点が全く欠落してしまっているのであり、これを啓蒙する必要があるのである。あちらの思惑通りなのだが、だから洋楽やハリウッド映画を通して英語を学ぶというのは、案外間違いじゃなかったと思う。ただここで注意しておかねばならないのは、そうした文化をあくまで日本人としての立場から見た相対的な、客観的なものとして知るということである。番組中にも子供が家の中で英語で会話するという場面があったが、これも言うなればカレーを箸で刻んで食べているようなものであり(無論カレーを食べるのに本来必要なのは箸でもスプーンでもなく自分の右手なのだが)、子供だから許されるが大人でこのような調子では、日本の観光地において異国の言葉で騒ぎ立てる外国人観光客に対して我々が感じるのとちょうど同じように、物事の使い分けに節操がない、ちょうど分別がないというものである。ここで私は相対的、客観的と言ったが、ここには議論の余地があるであろうけれども、私はあくまで日本人としてそれらを知り、それについて考えるべきだと思う。お互いの立場を理解し、認め合うことが、ついにはは国際的理解に繋がると思うのだ。そもそも外国語教育の目的の一つは、それを通じて日本語や日本の文化を相対的に、客観的に見ようというところがあるのである。ここでは外国語はどれでもよいが、英語が最も都合がよいから採用されているというだけである。結局のところ、英語を喋れるようになることを急いでいる人ほど、実は自分の国について知らねばならないのだ。