夢流し

辺りはあまりに静かでも、頭の中はどんちゃん騒ぎ。京都の地に独り暮らし、苦節の学部生生活を送る京都大学生のブログ。文化、言語、娯楽、心理、生活等に関して、大学における教養科目の講義で得た知識を再解釈および適用し、その知を広く社会に還元することを目指す。

『感じない男』感想および特に二次元における児童ポルノについての考察

先日森岡正博著『感じない男』を読んだ。
しばらく前に日常的に自慰に耽っているネット上の仲間に紹介していたのだが、いつからか自身が読みたくなっていたのだ。学校図書館に注文したものである。
私は読書に時間がかかるが今回はすらすらと読めた。
私が特に興味を抱いたのはやはり制服フェチとかロリコンについての話題である。そもそも人や時代によって「ロリコン」の語の指す対象は変わるものであり(『うる星やつら』のラムを愛好する人々がロリコンと呼ばれていた時期もあるようである)、彼はその対象を12~14歳の少女としているが、これは現在からすればやや高めであるので、内容にもややずれが出てくるところであろうがそれは後々述べる。
パンツの下には女性器がなくつるつるであるべきとか、女性本体では制服に対しての物質的フェチであるとかいう考え方は面白かった。そして私が特に共感したのは次の記述であった。
少女とは、「女の体」か「男の体か」という思春期の分岐点を、まさに女の体の側へとカーブしようとしている存在なのだ。そしてロリコンの男は、そのような少女の姿にあこがれを抱き、こだわっているのである。ではなぜ、「女の側」へとカーブする瞬間がそれほど気になるのか。
私の場合を例にとって考えてみる。私の意識のそこには、ひとつの思いが沈殿している。私はあの思春期の分岐点において、間違った方向へと舵を取ってしまったのではないかという思いである。本来ならば「女の体」のほうに向かって開花しているはずだったのに、何かの間違いで、私は「男の体」のほうに舵を取ってしまった、いや、自分の意思とは無関係に無理やり舵を取らされてしまったのではないかという思いである。(後略)
なぜ、間違って「男の体」のほうへと来てしまったという思いがあるのかというと、私は思春期以来、自分が「男の体」を持っているということを自己肯定できなかったからである。(中略)私の心の底には、まだ自分に男性ホルモンも、筋肉も、体毛も、精液も満ちていなかった、あの少年のころの体へと戻りたいという思いがある。っしてできることならば、あの思春期の分岐点を、男性ホルモンも、筋肉も、体毛も、精液も存在しない「女の体」のほうへ向かって、大きくカーブしてみたかったという思いが存在する。私はそれらの思いを、何度も意識の底で反芻する。そして、あの分岐点をいままさに「女の体」のほうへと曲がろうとしている十一歳から十二歳の少女の体へと、吸い寄せられていくのだ。私は、「ああ、私もあの少女のように、できることならば向こう側へと舵を取ってみたかった」と思い、その少女の体の内部へと自分の意識をすべり込ませ、少女の思春期を内側から追体験して生きてみたいと思うのである。ロリコンの心理は、こうやって誕生する。

私はロリコンであることを喜んで認めるものだが、この記述は表現し得なかった私自身の考えをも見事に表現している。私はまさに女になりたいという願望があり、ともすれば化けられたらいいのにとも思っている。今はできないが、独り暮らしでもすればひとりでに女装趣味なども現れそうである。アニメ声を出せるようにいろいろ努力(というよりはただ望んでいるに近いが)していたり、プロフィール画像を幼女にしていたりもその証拠であろう。しかれども嗜好を消費するにあたり対象がどうしてもそういう類のものに向かいがちな、いわば自己毀損、ある意味の矛盾を、この記述は見事に解決してくれたのである。しかもネット上で訊いてみたところ、こう考えていたのは私だけではなかった、私は一種の安心すら覚えた。ところで二次元は三次元に比べてよりいっそう純化・理想化されたものであるから、こちらがより普及している(ように見える)のも頷ける。
ただし、私は彼の言う「分岐点」に執着するのではない。私はむしろそれより年齢の低い少女を好むのである。これは深層心理的にも性的な成熟を望むものではない。(このことは「新しい自分を産ませる」という後の展開にも影響を及ぼすものである。)だからロリコンを必ずしも「分岐点」への志向性に帰結するのは今の時代からするとやや不適切であろう。そもそも彼はロリコンを二種類に分けたが、その後者においてもさらに二分されるべきであると私は思う。
それから彼は児童ポルノ自体については「出演者に危害を及ぼす」という点で反対しており、ロリコンに対しても「感じない男」をやめる努力をすることでことでなくしていかなければならないと否定的である。しかしどうしてロリコンがいけないのかについては、生身の少女が被害に遭う危険性があると言うにとどまっている。まず前者について、そもそもこの書籍に二次元系における表記が少ないことからしても、彼は二次元児童ポルノをよく把握していなかったものと思われるが、その理論からすると当然生身の少女としての出演者を必要としない二次元児童ポルノは問題ない、むしろ歓迎されるべきととるべきであろう。(これは児童に限ったことではなく、「ポルノは出演者に有害だから」という彼の考えに即してすべての二次元ポルノに適応される。)それからロリコンの加害の可能性についてもかなり低減されるものだと思う。(この点彼は可能性が高いと述べるにとどまっている。この程度が児童ポルノに二次元を含めるかどうかの争点なのであるが。)私はロリコンをやめたいとは思わないし、むしろ潔癖な嗜好として誇りすら持っている。これは彼の言う「不感症」を認めることになる。このことに私は一瞬抵抗するが、大きな目で見ればその通りであった。
彼は結論として「『感じない男』をやめて、やさしい人間になろう」としているが、慈雨のごときやさしさを持っていると我ながら思っている私としても、二次元における児童ポルノは規制されるべきではないと述べてこれを締めくくる。

感じない男 (ちくま新書)

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